The Republic of urawa
零戦のエンジン
- 2010-04-12 (月)
- 未分類
零戦に搭載されていたエンジンは「栄」とネーミングされたエンジンで、空冷星形複列14気筒で950hpをしぼりだした。排気量は27.9リットル。栄エンジンには機械式過給器が取りつけられていた。機械式過給器とは今でいうスーパーチャージャー。ベンツなどはコンプレッサーとよんでいるアレである。過給器については後に触れる。
戦闘機による戦闘とは命をかけてレースをするようなもの。よって、敵となるマシンのスペック無しには語れない。戦闘機のスペックの評価は相対的なものだということだ。例えば敵の戦闘機が500hpくらいだと栄エンジンは充分にパワフルだという評価が与えられるが、敵の戦闘機が1500hpだとエンジンとして非力という評価になる。
車やオートバイのレースと同じく、敵よりスピードが速いというのは武器として利点となる。馬力は加速性能にも直結しているので、極論だが馬力が大きければ大きいほど戦闘を有利に運べる。
また、有り余るパワーはパイロットを守る防弾板や、防弾ガラスなど、重量が嵩む部品を搭載可能とし、生存率を高められる。同時に携行できる弾の数も増やせ、機銃弾のみならず、爆弾の搭載も視野に入ってくるので破壊力も増大できる。
よって戦闘機の性能はエンジンの出力により左右されるといっても過言ではないはずだ。
零戦が誕生したのは1940年。アメリカで同時期の戦闘機はF4F-3。この戦闘機のエンジンは空冷星形複列14気筒で1200hp。排気量は30リットル。イギリスではスピットファイアのマーク2あたり。エンジンは液冷V型12気筒で1440hp。排気量は27リットル。同盟国であるドイツだとBF109E-1あたりか。エンジンは液例V型12気筒で1050hp。排気量は33.9リットル。
こうしてみると零戦の栄エンジンの950hpは非力ではあるが、頑張ったエンジンといえるのではないか。当時の日本はエンジンの製作技術が他の先進国に比べて劣っており、そのなかでこの950hpは立派だと重う。しかし念のために付け加えておくと、栄エンジンは同程度の性能を持っていたアメリカのエンジンのコピーであるという説もある。
零戦が太平洋にて対峙したのは前出のF4F戦闘機であった。日米開戦前、アメリカは中国本土に義勇軍としてアメリカの戦闘機とパイロットを送っていた。フライングタイガースとよばれた彼らは日本の戦闘機と戦い、日本製戦闘機+日本人パイロットはあなどりがたしというレポートを本国に送っていた。が、本国の国防省はそのレポートを重要視しなかった。日本の工業力とパイロットを軽視していたのだ。
しかし開戦後、正規軍のパイロットが零戦と戦うようになり、零戦と日本軍パイロットの評価は一変する。
零戦は軽戦闘機として設計された。車でいうとライトウェイトスポーツカーみたいなもの。軽く仕上がっていたので、格闘戦は得意だった。アメリカ軍のパイロットは零戦をなめてかかっていたので、零戦が格闘戦に持ち込むと容易にさそいにのり、撃墜されていった。
しかし、アメリカ軍はバカの集団ではない。すぐに対策を講じた。要は零戦との格闘戦を禁止したのだ。零戦はダイブスピードがF4Fに比べて劣っていた。零戦に襲い掛かられた場合、格闘戦に持ち込まず、急降下してしまえば零戦を振り切れた。そしてエンジンの馬力差を利用して急上昇し、上から一直線に零戦に襲い掛かった。さらには2機で1ユニットとする編隊を組み、零戦と対峙することにした。
このような戦法をアメリカ軍が採用するにつれ、零戦の優位性はくずれていったのだ。
さらにアメリカ軍は新型戦闘機を戦場に送り出した。1943年にF6FをF4Fの後継機として登場させた。このF6Fのエンジンは空冷18気筒で2000hpをしぼりだした。排気量は45.9リットル。1943年頃の零戦は五二型。エンジンは同じく栄であったが若干のパワーアップを果たしていた。その馬力は1130hp。パワーアップしたとはいえF6Fの約半分でしかない。
モータースポーツなどを趣味とする方ならこの数値は絶望的であると、ご理解いただけると思う。1000馬力級のエンジンが2000馬力級のエンジンにかなうわけがない。
確かに零戦は格闘戦に強い戦闘機ではあったが、一撃離脱戦法をとるF6Fにはかなわなかった。偶発的な戦闘において、また優秀なパイロットが操縦する零戦にF6Fが撃墜されることはあった。が、しかしそれでは大局は動かないのだ。それよりも多くの零戦がF6Fに撃墜されたのだから。
日本は工業力が米英に比べて劣るまま戦争に突入し、やがて戦に敗れた。
ついに零戦には2000馬力級のエンジンは搭載されなかった。
物資に恵まれるアメリカだから2000馬力級のエンジンを生み出せたのだというわけではない。日本同様資源にとぼしいイギリスを例に見てみる。1944年頃にはスピットファイアのMk.XIVは2050hpを出力するエンジンを搭載している。同じくドイツでもBF109K-4が2000馬力級のエンジンを搭載していたのだ。
スピットファイアのエンジンは、ロールスロイスのマーリンと名付けられたエンジン。BF109のエンジンはダイムラーベンツのDB605というエンジンである。どちらのエンジンも気筒数を増やし、排気量にたよってパワーアップするという手段をとっていない。
ではなぜパワーアップできたのかというと、過給器の性能を向上させたのだ。
日本では過給器といえばスーパーチャージャーよりも、ターボチャージャーのほうが知名度がある。どちらも原理は同じ。空気を圧縮してエンジンに放り込んでやればパワーアップ!というもの。エンジンの中で燃えるのは酸素。大気の成分はおおざっぱにいって窒素80%酸素20%。8割がたは燃焼しない成分。航空機のエンジンは地表をはいずる車のエンジンよりももっと大気の成分にシビア。なぜなら高空にいけばいくほど空気が薄くなるからだ。よって過給器の性能がエンジンの性能に直結する。
イギリスもドイツも、過給器の性能アップによりエンジンの性能を高めた。零戦にも過給器は搭載されていたが、一段一速式と比較的簡単な物。イギリスやドイツでは、二段二速式過給器をモノにしていた。段とはステージともよぶ。車好きの人なら解ると思うが、2ステージターボと同じ理屈。一段目で圧縮した空気を二段目でさらに圧縮する。速とはスピードとも良い、五段変速を5スピードとよぶようなもの。つまり圧縮した空気の速度を可変させることができる。この二段になった圧縮機とそれぞれの空気の速度を調節できる変速機により、最適な空気密度をエンジンに送れるようにしたのだ。
日本はこの過給器の開発に後れをとり、結局満足に過給器の性能アップができなかった。日本の戦闘機が高空に弱かったのはこの過給器の性能のせいであるといってもよい。高々度を飛行するB-29に零戦はほとんど無力であった。
日本は大戦末期になってようやく「誉」とよばれた2000馬力級のエンジンを開発する。しかし、戦局はもう日本の敗戦に傾いており、また誉エンジンはまるで工芸品のように緻密な設計を持つエンジンであり、熟練工をほとんど戦場に送り出してしまった後の工場での生産は難しかった。そのため、規定の馬力を出せないエンジンが多くあったという。蛇足ではあるが誉を搭載した戦闘機としては海軍では紫電改が有名である。
日本が戦闘において負けたのは工業力の差だけではなかったのはもちろんである。なぜなら第二次大戦で戦勝国の仲間入りした中国は日本よりはるかに工業力で劣っていた。
しかし、兵器の開発競争において日本が欧米に後れをとったのは工業力の差だと言って良い。すでに欧米では自家用車が当たり前となっていた。町には自動車を生産する工場があり、住宅地には自動車を修理する工場があった。また、なにより性能のよい、工作機械があった。パワーのあるエンジンを生産するには性能の良い工作機械が必要であった。工作機械とは機械を作る機械のことで、例えば設計図通りの寸法でエンジンの部品を生みだす機械のこと。日本は工作機械を欧米から輸入していた。その輸入していた国と戦争をした訳なので、機械のアップデートはかなわず、また工場が爆撃されればそれで終わりだったのだ。
限られたリソースの中で零戦は頑張って作られた兵器だった。しかし、工業力の基礎が欧米に比べ劣っていた。ゆえに戦局にあわせて兵器をアップデートできず、やがて日本は敗戦する。
一発ドンの紛争ならいざしらず、長期戦においては国の基礎的な力がどれくらい敵よりも勝っているかによって雌雄は決する。それはサッカーにおいても同じだ。サッカーには国際間の戦いのように同盟関係が許されない。クラブはクラブ毎に戦う必要がある。よって中国のような動きはできない。基礎あるのみだ。
基礎は積み重ねることによってでしか強化できない。日本の工業力が欧米に見劣りしなくなったのは、1970年あたりか。それくらい基礎を積み重ねるには歳月が必要なのである。
浦和はオフト以降、基礎をおろそかにし、ガソリンに添加物を入れてパワーアップするような手法で戦ってきた。添加物に頼るあまり、エンジンブロックなどは劣化し、ボロボロになってしまっていた。そこにDB605エンジンを上手に育て上げた民族(苦しいなぁ…前任者たちもドイツ人…)が、浦和の監督としてやってきた。彼は1000馬力級の栄エンジンにニトログリセリンをつっこみ、無理矢理2000馬力を出していたような浦和にまずやったことは栄エンジンを下ろすことだった。栄はすでに1000馬力で限界であった。もうのびしろはなかった。ならば設計にまだ余裕のあるDB605エンジンにつけかえ、過給器の圧縮率を少しずつ高めていき、世界標準の2000馬力級のエンジンに育てようとしているように見受けられる。
だがしかし、未だに多くの日本人が一対一で敵を撃墜した零戦を必要以上に崇拝するように、組織ではなく個の力で勝っていく浦和に未練があるようだ。サッカーという競技が一対一で行われる種目であればもちろんそれでいい。しかし欧州生まれのこのスポーツは個の力よりも集団としての力を重要視する。一人一人が監督の理想とするシステムを理解した上での個の力だ。
浦和にはエメやワシントンというニトログリセリンのようなパワーを持つ選手がいた。彼らに匹敵するような選手を毎回買ってくれば良いだろうという意見もあるだろう。だがそれで浦和というクラブが強くなったと本当に言えるのだろうか。
わたしは浦和の下部組織からやってきた少年たちが、浦和のトップチームのシステムに則り、浦和のサッカーをやる。これが理想だと思う。今まさに、DB605エンジンを生みだした血が、浦和のサッカーを育てているのだ。そして彼は基礎を作るには時間がかかると明言しているのだ。実に正直ではないか。わたしは我々サポ・ファンに向けられた彼のその正直な言ゆえに、彼を支持する。
日本人はせっかちな民族だ。そのせっかちな民族に対して時間がかかると言ってのけたのだ。これは勇気があるのと同時に自信がないと言えない言葉だ。
考えてみてほしい。もしあなたが経営が傾く会社の社長になれと言われ、社長就任日に株主などに、業績が上がるには時間がかかると言えるだろうか。彼は言ってのけた。そしてその言に失望する人もまた多くいた。フィンケは折り込み済みだったのだと思う。離れる奴はいますぐ離れろと。フィンケの言にはふくみがある。わたしたちもまたフィンケに試されているのだと思う。
さて。フィンケとの旅路はまだ始まったばかり。浦和が基礎力でその他のクラブを圧倒する時代がその後に続くと思えば、5年くらい短いものではないか。
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零式艦上戦闘機
- 2010-04-05 (月)
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零戦を知らない日本人はいないだろう。いやいるか。零戦とはいわゆる太平洋戦争中に活躍した日本の戦闘機だ。
零戦は当時最強の戦闘機で、米英から恐れられた戦闘機であったと記憶される方も多いだろう。確かに零戦が戦場に投入された当時は無敵を誇っていたと言って良い。
さてその零戦には二つの機銃が装備されていた。この機銃でおもに敵航空機を撃つのであるが、ひとつは7.7mm機銃、もうひとつは20mm機関砲である。機銃と機関砲と呼び名は異なるが、ガガガガガと連続して弾が出るアレである。
零戦は7.7mmを2つ、20mmを2つ、計4挺備えていた。
7.7mm弾はピストルの弾のように、弾が目標物を貫通することにより、打撃を与える兵器である。対して20mm弾はどうだったかというと、弾の中に火薬が仕込まれており、命中と同時に弾が炸裂し、目標物に対して大打撃を与えるという兵器であった。
一読すると最強の兵器のように思える。しかし、この20mmが当たらなかった。と、名著『大空のサムライ』を著した零戦パイロット、坂井三郎さんは記している。20mmの弾は重く、それを高速で打ち出すための技術力がまだ日本にはなかった。打ち出された20mm弾は下方曲線を描いて飛んでいったのだ。坂井さんはこの20mmを「しょんべん弾」と呼称している。一方、7.7mm弾は技術的にもこなれたモノなので、まっすぐに飛んでいった。坂井さんは主にこの7.7mmで敵機を落としたと自著に記している。
ではなぜ日本海軍はこの20mm機関砲を採用したかというと、当たると大打撃を与えられるというスペックに目がくらんだのであろう。日本の指導者たちは、バラバラと数を撃って敵に打撃を与える戦法より、一撃必中という神懸かりな戦法に賭けたのだ。
確かに日本には鉄鉱石などの資源に恵まれない。だから一撃必中というファンタジーを信じようとしたのかもしれない。が、はたして本当にそうなのであろうか。
飛行機は重力に逆らって飛ぶモノだ。飛行機に搭載できる弾にも限りがある。重い20mmの弾は最大で100発しか搭載できない。新兵は一度の射撃で撃ち尽くしてしまう量である。なにしろ引き金を引き続けると数秒で撃ち尽くしてしまうのだ。これで戦えという指導者たちは兵士に命じたのである。それでも多くの兵士たちはこの武器を駆って自分の命を的にして戦った。彼らにはもちろん罪はないが、このような兵器を現場の意見も聞かずに作りだした指導者たちに怒りを覚える。
坂井さんのようなベテランパイロットであれば、しょんべんのように下降する弾道を予測して敵機にあてることも可能だっただろう。だが新兵には使えない武器であった。
一方、零戦と対峙した米軍の戦闘機はどうだったか。初期段階で零戦と戦ったF4Fワイルドキャットのデータを見てみよう。機銃は12.7mmを6挺搭載している。携行弾数は240発。合計すると240×6で1440発。この6挺で日本の航空機をまるで雨霰のように撃ちまくった。下手な鉄砲数撃ちゃあたる。下手つまり新兵でも敵機にあてられる兵器であった。
アメリカ軍が用いた12.7mm銃はブローニングM2と呼ばれる機銃であった。過去形で書いたが、現在でも現役だという。このM2の弾はまっすぐに良く飛び、ゆえに命中率も高かった。アメリカはM2を、その後に登場するF6F、F4U、陸軍機ではあるがマスタングの名で知られるP-51にも搭載した。もちろん海軍、陸軍ともに同じ弾を使っていて海軍機であろうと陸軍機であろうと同一の補給ラインで事足りた。
なにを当たり前の事をわざわざ書いているの?と思われただろう。これが日本においては当たり前ではなかったからだ。なんと日本軍は驚くべき事に海軍と陸軍で違う弾を使っていた。同じサイズの銃であってもだ。7.7mmは陸軍の戦闘機にも搭載されていたが、零戦用の弾を流用することができなかったということだ。
海軍の戦闘機が陸軍の飛行場に立ち寄り、弾薬の補給を受けようとしても受けられなかったのだ。互換性がきかなかったのは弾ばかりではない。燃料(オクタン値。海軍の石油精製技術のほうが進んでいた。海軍は陸軍にその事実を秘密にしていた)も違っていた。もっとマクロな部分にも規格の不統一があった。零戦には三菱製と中島製があったのだが、この出荷したメーカーによっても機体に差異があった。もうなにをやっているのだかである。現場の整備兵たちの苦労がしのばれる。
さて。これらの事実が昔はそうだったのかもね、と過去という箱に入れて蓋を閉めるなかれ。思いだして欲しい。
つい最近まで携帯電話の充電器はメーカー毎にコネクタの形状が異なっていたではないか。
物資に恵まれ、大国であるアメリカが武器の標準化をすすめて合理化していったのに対し、資源とえいばコンクリートくらいは大丈夫程度の日本には規格の相違が山とあった。本来日本がやるべき事は、資源(もちろん人的資源も)を有効に活用すべく、規格を統一し、補給ラインを一本で済ませられるように合理化すべきであった。
いや、当時の日本人も現在の日本人も解ってはいたはずだ。合理化すべきなのだと。
なのに豊かになった現在の日本でも、携帯電話の操作法がメーカーによって大きく異なるというのはどういう訳か。
これは国民性なのではとわたしは思う。日本人は合理化が苦手なのだ。
合理化が苦手なのは工業製品に限ったことではない。
サッカーというスポーツにおいても日本人は合理化を受け入れられない。いや、と言うより合理化を憎む人たちすらいるように見受けられる。これは浦和に限ったことなのかもしれないが。
ベテランと若手が交代しようが同じようなサッカーを目指せる。ポジション毎に役割を決め、システマチックに動く。
欧州から一人の男が浦和という地に、合理化つまりシステムでやるサッカーを根付かせるべくやってきた。
しかしながら日本人はやっぱりこの合理化というヤツがどうにも苦手だ。中くらいの弾をばらまくより、大きな弾を一発当てて敵を粉砕したいという夢にとりつかれている。確かに後者は爽快かもしれない。それに浦和ファン・サポはかつてそういった選手がいたことを知っている。十分にその快楽に溺れた。一度覚えた快楽はなかなか捨てられない。それもまた人間の性だ。
しかし、大きな弾を一発で当てられる人材がどれほどいるのか。その選手がケガをすれば浦和の戦術は終わりになるのではないのか。少々小粒だがゆえに代わりがきくような選手でシュートをばらまけばいい。代えはきくのだ。ケガをすれば交代すればいい。
システムとはそういうものだと思う。
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ツィゴイネルワイゼン
- 2010-03-24 (水)
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なにも予定がない週末(嫁さん募集中です!)。こういうときまずわたしはスカパー!の番組表をつぶさに見る。
都合良く観てみたいと思っていたタイトルが番組表に載っていた。鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」。おおこれこれとチャンネルを合わす。
実に不思議な映画であった。難解と評されていたのは知っていたのだが、構成としては良くある使い古されたテーマだと思った。
「穴」というメタファーはおおげさに言っちゃえば有史以来、たとえば神話などにも多様されている。日本神話にだってちゃんと登場していて、天照大神が隠れるのは穴だ。または、ザナギとイザナミの話。
穴を進むとそこには冥界が広がる…、というのが多くの神話に見られるメタファー。もうひとつのメタファーとしては女性(母)への回帰であろうか。天照大神の場合は後者になるのだろうとわたしは思っている。天照大神は女という性を持つ。女という性はこれまた洋の東西現在過去未来を問わず、「繁栄」を表すメタファーだ。繁栄を約束する女神が再び母胎へと帰ろうとする。これは困ったことになったと神々は大騒ぎするのである。
蛇足だが日本神話の要は「天孫降臨」だとわたしは思っている。天とは天照大神を表し、孫とは瓊瓊杵尊(ニニギ)のこと。ニニギは日本を統治すべく、日本へと降り立つ。これが降臨。
天照大神は息子の天忍穂耳(アメノオシホミミ)を日本に使わそうとするのだが、アメノオシホミミはその申し出をことわり自分の息子、ニニギを推挙する。
実に回りくどい。ミステリー小説や推理モノの映画などで、このようなことが描かれれば受手側はまず間違いなく、「ここは伏線だな」と思うはずである。
話を作る側から言えば、自分の息子を日本に使わすほうが、すんなりストーリーを運べて無理がない展開にできる。わざわざ回りくどく、孫を使わすなんてことはしないであろう。しかし、天孫降臨は起こったのである。
後世の学者たちはそこになんらかのアナロジーがあるのではと考えるのは当然のこと。
日本に降り立ったニニギは、猿田彦という地上にいた神の手を借りて日本を統治していく。この猿田彦があやしい。どれくらいあやしいかはぜひ検索していただきたい。あやしいというのは財布を盗んだのはあいつか、というあやしさではなくて、どうにも実体がつかめないというあやしさ。例えば道祖神であったり天狗であったり七福神の神様であったりもういったいなにがなんだか。
天孫を地上にて迎えるという栄誉を受けた猿田彦であったが、その末期は事故死という不穏なもの。
これをどうとらえるか。わたしは「らしいな」と思っている。つまりは猿田彦は栄光に包まれながら往生するのではなく、ひっそりと神話の中から消え去る。
猿田彦が水死したのは伊勢の国。大事なことなのでもう一度。猿田彦は伊勢の国で亡くなる。
天から迎え入れる神は孫でなくてはならなかった。また、地上には神を導く有能な人材がいなければならなかった。日本を統治する神と実務を司る神。実務を司る神はやがて歴史の中に埋没していくが、確実にその栄誉を神話に刻み込んだ。それは天皇家と藤原家の関係に酷似していないか。これがわたしの感想である。
もう一つのわたしには結論めいた思いがあり、藤原氏は今も日本の権力中枢にいる。日本は藤原不比等以来とぎれることなく、藤原家から強い影響を受けているのだ。
藤原の姓を受けた中臣鎌足。天智天皇から賜った姓とされるが、これほどまでに藤原家を象徴する姓はないだろう。藤とは植物の藤だろう。藤はツル性の植物であり、自然界においては木々にからみつき、自己を繁栄させる。なんともジャストミーニングな姓を賜ったものである。
藤原氏は自己の存在を隠すのに巧みである。天皇家に次ぐ名家と言える藤原家なのだが、現在の当主はいったい誰なのであろうか。
前書きが長くなりすぎた。わたしは「ツィゴイネルワイゼン」のことが書きたかったのだ。現世と冥界を行き来する主人公。やがてその境界線はあいまいになり、現世を生きていたはずの主人公もまた冥界に旅立とうとするが、そもそも主人公が現世と思っていた世界もまた冥界ではなかったのか。
いやいやそんなことをわたしは書きたかったのではない。
この作品においてもっとも重要な役を演じる、大谷直子が美しい。
大谷直子似の嫁はんが欲しい。
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こそこそ再開します
- 2010-01-26 (火)
- 浦和
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